この付録が扱うこと
合格へのタクティクス 数学(上巻)には、複素数だけを扱った付録が置かれています。複素数そのものを学ぶための章ではありません。付録の冒頭には、特性関数に絡んだ問題や定理は複素数の知識がまったくないと何を書いているのか分からない、という趣旨のことが書かれています。
複素数が出てくる場所は1つです。特性関数の定義に虚数単位が入っています。
$$\phi_X(t) = E\left[e^{itX}\right]$$
積率母関数 $M_X(t) = E\left[e^{tX}\right]$ とほとんど同じ形ですが、肩に $i$ が付いています。この違いには理由があります。積率母関数は $t$ の値によっては期待値が発散して存在しないことがありますが、特性関数は $\left|e^{itX}\right| = 1$ なので、すべての実数 $t$ に対して必ず存在します。
守備範囲が広いぶん、証明で使われる場面が出てきます。中心極限定理の証明が典型です。そこを読み進めるために必要な複素数の知識を、この付録は最低限に絞ってまとめています。
やるべき範囲がはっきりしているので、どこで止めてよいかも決まります。複素関数論に踏み込む必要はありません。
複素数とは
虚数単位 $i$ は $i^2 = -1$ で定義されます。実数 $a, b$ を使って
$$z = a + bi$$
と書いたものを複素数といい、$a$ を実部、$b$ を虚部と呼びます。$b = 0$ なら実数、$b \neq 0$ なら虚数です。
出てくる場面は2次方程式です。$x^2 - 2x + 5 = 0$ を解くと
$$x = 1 \pm \sqrt{1 - 5} = 1 \pm 2i$$
平方根の中が負になります。実数の範囲では解なしですが、複素数まで広げれば解として扱えます。
四則演算は $i$ を文字だと思って計算し、$i^2$ が出たら $-1$ に置き換えるだけです。
和と差は実部どうし、虚部どうしを計算します。
$$(2+i) + (-1+3i) = 1 + 4i, \qquad (2+i) - (-1+3i) = 3 - 2i$$
積は展開してから $i^2 = -1$ を使います。
$$(3+2i)(2-4i) = 6 - 12i + 4i - 8i^2 = 6 - 12i + 4i + 8 = 14 - 8i$$
商のためには共役複素数が要ります。$z = a+bi$ に対して $\bar{z} = a - bi$ を共役複素数といいます。分母と分子に分母の共役複素数を掛けると、分母が実数になります。
$$\frac{i}{2+i} = \frac{i(2-i)}{(2+i)(2-i)} = \frac{2i - i^2}{4 - i^2} = \frac{1+2i}{5}$$
分母が実数になるのは $(a+bi)(a-bi) = a^2 + b^2$ だからです。この形は次の絶対値につながります。
複素数平面と絶対値
複素数は実数2つで決まるので、平面上の点 $(a, b)$ と同一視できます。これを複素数平面といい、横軸を実軸、縦軸を虚軸と呼びます。
原点から点 $z = a+bi$ までの距離を絶対値といい、$|z|$ と書きます。
$$|z| = \sqrt{a^2 + b^2}$$
2つの複素数 $\alpha = a+bi$、$\beta = c+di$ の間の距離も、平面上の2点間の距離として書けます。
$$|\alpha - \beta| = \sqrt{(a-c)^2 + (b-d)^2}$$
ここが要点です。複素数の絶対値は距離であり、差の絶対値は2点間の距離です。証明で $\left|\phi(t) - 1\right|$ のような式が出てきたら、それは複素数平面上の2点がどれだけ離れているか、を表しています。
絶対値の性質で使うものを挙げておきます。
$$|z_1 z_2| = |z_1||z_2|, \qquad \left|\frac{z_1}{z_2}\right| = \frac{|z_1|}{|z_2|} \ (z_2 \neq 0), \qquad |z|^2 = z\bar{z}$$
積の絶対値が絶対値の積になるのは、距離が掛け算で伸び縮みするからです。
三角不等式
証明でもっとも使う道具です。任意の複素数 $\alpha, \beta$ に対して
$$\left|\alpha - \beta\right| \leq \left|\alpha\right| + \left|\beta\right|$$
意味は幾何そのものです。原点、$\alpha$、$\beta$ を頂点とする三角形を考えると、$\alpha$ と $\beta$ を結ぶ辺の長さは、残り2辺の長さの和より短い。等号が成り立つのは、$\alpha$ と $\beta$ が原点をはさんで反対方向の一直線上に並ぶとき(またはどちらかが0のとき)です。
証明で使う形はたいてい、絶対値の付いた量を上から押さえるときです。値そのものを求めるのではなく、小さいことを示す。複素数のまま扱うと大小が言えないので、絶対値を取って実数にしてから不等式を適用します。
積分に対しても同じ形が使えます。
$$\left|\int_a^b f(x)\,dx\right| \leq \int_a^b |f(x)|\,dx$$
和や積分は「たくさん足す」操作なので、三角不等式の繰り返しとして理解できます。
極形式と回転
複素数を距離と角度で表す書き方もあります。
$$z = r(\cos\theta + i\sin\theta), \qquad r = |z|$$
$\theta$ を偏角といい、$\arg z$ と書きます($z = 0$ には定義されません。また偏角は $2\pi$ の整数倍のずれを除いて決まるので、偏角の等式は $2\pi$ の差を同一視して読みます)。
この形にすると、掛け算の意味がはっきりします。
$$z_1 z_2 = r_1 r_2\left\{\cos(\theta_1+\theta_2) + i\sin(\theta_1+\theta_2)\right\}$$
$$\left|z_1z_2\right| = |z_1||z_2|, \qquad \arg(z_1z_2) = \arg z_1 + \arg z_2$$
掛け算は、長さを掛けて角度を足す操作です。割り算なら長さを割って角度を引きます。
特別な場合として、$i$ を掛けると何が起きるかを見ます。$i = \cos\dfrac{\pi}{2} + i\sin\dfrac{\pi}{2}$ なので、長さは1のまま角度が $\dfrac{\pi}{2}$ 増えます。つまり原点まわりに90度回転させる操作です。長さが変わらないので
$$|iz| = |z|$$
$z = 3 + 2i$ で確かめます。偏角は33.69度、$iz = -2 + 3i$ の偏角は123.69度で、ちょうど90度増えています。絶対値はどちらも $\sqrt{13} = 3.6056$ で同じです。
つまずきポイント:三角不等式の符号に引っかかる
三角不等式の形は $\left|\alpha - \beta\right| \leq |\alpha| + |\beta|$ です。左辺が引き算なのに右辺が足し算になっているところで手が止まります。
$$\left|\alpha - \beta\right| \leq |\alpha| - |\beta| \quad \text{(これは誤り)}$$
$$\left|\alpha - \beta\right| \leq |\alpha| + |\beta| \quad \text{(正しい)}$$
誤ったほうは右辺が負になりうるので、絶対値が負以下という不可能な主張になります。$\alpha = 1$、$\beta = 2$ で試すと、左辺は1、誤ったほうの右辺は $-1$ です。
正しい形の根拠は、$-\beta$ の絶対値が $\beta$ と同じであることです。$\left|\alpha - \beta\right| = \left|\alpha + (-\beta)\right| \leq |\alpha| + |-\beta| = |\alpha| + |\beta|$。引き算は $-\beta$ を足すことなので、和の三角不等式がそのまま使えます。
なお、下から押さえる形もあります。
$$\left|\,|\alpha| - |\beta|\,\right| \leq \left|\alpha - \beta\right|$$
こちらは左辺に絶対値がもう1つ付きます。上から押さえるのか下から押さえるのかで形が違うので、使う場面を意識して覚えてください。証明で出てくるのはほとんど上から押さえる形です。
試験ではこう出る
複素数そのものが問われることはありません。特性関数の議論の中で道具として使われます。
2021年度の問題3は、15点の大問がまるごと特性関数にあてられました。テーマは、期待値 $\mu$ が存在するとき
$$\phi(t) = 1 + i\mu t + o(t) \qquad (t \to 0)$$
が成り立つことを、連続の場合と離散の場合それぞれで示すことです。中心極限定理の証明の入口にあたる部分です。
この大問の問題文には、次の但し書きが置かれていました。
三角不等式:任意の複素数 $z_1$、$z_2$ に対して、$\left|z_1 - z_2\right| \leq \left|z_1\right| + \left|z_2\right|$
付録に載っている形がそのまま、問題文の中に道具として提示されています。使ってよい、というより使うことが前提です。
同じ問題の (1) では、特性関数が積率母関数より優れている点として、$t$ の取りうる範囲を問うています。答えはすべての実数です。$\left|e^{itX}\right| = 1$ なので期待値が必ず存在する、という理由まで押さえておくと選べます。
2016年度の問題1(4)も特性関数の問題でした。0から3までの値を各4分の1で取る独立な確率変数 $X_1, X_2, \dots$ に対して
$$Y_n = \sum_{k=1}^{n} \frac{X_k}{4^k}$$
の特性関数が、$n \to \infty$ でどこに近づくかを問うています。
答えは区間 $(0,1)$ の一様分布の特性関数です。実際、$t = 1$ で数値計算すると積は $0.8415 + 0.4597i$ となり、一様分布の特性関数 $\dfrac{e^{it}-1}{it}$ の値と一致します。
意味を言葉にすると、4進法の各桁を独立に等確率で選んだ数は、区間 $(0,1)$ に一様分布する、ということです。直感的には当たり前に思えることを、特性関数の積として厳密に示せる。特性関数が独立和に強いことがよく分かる出題です。
特性関数そのものが問題文に現れた年度は、平成12年度から令和7年度までの26年度のうち2年度です。回数は多くありませんが、出るときは大問1つぶんになります。
まとめ
- 数学で複素数が要るのは特性関数のため。$\left|e^{itX}\right| = 1$ なのですべての実数 $t$ で存在する。
- 複素数の絶対値は原点からの距離、差の絶対値は2点間の距離。証明ではこの読み替えが要る。
- 三角不等式 $\left|\alpha-\beta\right| \leq |\alpha|+|\beta|$ が主力。右辺が足し算なのは $-\beta$ の絶対値が $\beta$ と同じだから。
- 極形式にすると掛け算は長さを掛けて角度を足す操作。$i$ を掛けるのは90度回転で $|iz| = |z|$。
- 2021年度の問題3は15点の大問で、三角不等式が問題文に明示されたうえで使われた。